岐阜 日龍峰寺
みたらしの霊水、パワースポット美濃清水、日龍峰寺
岐阜の関にある日龍峰寺(にちりゅうぶじ)を訪ねた。
山道を車で奥に進んでいくと
ほとんど人気のない場所に行き着いた。
車でいくにはさほど不便ではない場所で
道路左に仁王門が見えてきた。
一度車をとめて地図を見ると
もう少し奥に駐車場があるようなのでさらに登った。
車を止めるとすでにそこは展望台のような景色
標高が高くて山々を見渡せる。
実に空気がおいしいのでリフレッシュされる。
そこから少しだけ歩いて登ると
早速、鐘楼がみえてきた。
日龍峰寺の歴史は古く5世紀初めごろからあるようだ。
さらに奥へと進んでいくと重要文化財の多宝塔が見えてくる。
鎌倉時代に建てられたもので
北条政子が再建したものだと伝えられる。
この寺院の多くの建築は江戸時代以降に建てなおされたようで
戦国時代の前に戦で焼かれたようだ。
多宝塔のみが鎌倉時代だが、それも再建というのは
昔からあったということだ。
その面影を残しているのが本堂である。
この本堂の姿を見れば、あれれ清水寺?と思ってしまうだろう。
舞台造りと呼ばれる様式は、清水寺の時代に東北にも作られている。
とすれば、鎌倉時代よりずっと前に
同じような形でずっとあっただろうと推測できる。
美濃清水と呼ばれるくらい舞台造りは美しく出来ている。
この様式が建てられる環境としては
強固な岩盤のある山を背面にするというのがある。
壇上に作られた強固な岩盤の上に
大きな木製の土台が敷かれて見事だ。
水車や千手桧と呼ばれる霊木の横を通りながら
急な階段を登って本堂の舞台へ上がる。
恐ろしくすがすがしい気分になる場所で、
なんだかすごくすっきりする。と書きたいところだが、
私はプチ高所恐怖症である。
欄干の先端から下を見たら「ふええ」と声が出るほど怖気づいた。
それほど高いところに建っているということだ。
しばらく舞台の上で景色を眺めた後に
本堂の背面にある霊水のある場所へ行く。
本堂の背面は岩肌が露出している。
岩の間から水が湧き出している状態で、
ボケや目の病気に効くということだ。
水を飲みはしなかったが手にすくって上を眺めると、
このスペースがなんだか特別なものだと感じた。
光の届きにくい薄暗い場所に行くと
人間は少しだけ不安な気分につつまれるものだ。
でもここは大自然のなかではなく、人間の作ったスペース。
光の届きにくい洞窟っぽい場所に行くと
「やばい」という気分的な危険信号と
ここは安全という信号が多分心の中で一瞬戦うのだろう。
その結果このような場所では、
ちょっとだけ脳内物質が出て
人間は平常と違った感覚になれると思う。
マニアックな私は仁王門から本堂へのコースを
もう一度進もうとした。別コースで登るプレイだ。
そのときに猿の群れと遭遇し、なんだかキャーキャー叫ぶので
一人でいる私は一瞬怖くなってしまった。
木々の中で薄暗く不安になったせいもあるだろうし、
時折目の前を猛スピードで通り過ぎる動物を見ると
明るいところで見るよりかなり不気味だ。
霊とか神とかが存在しないと仮定して、
このような場所では人間は外敵の存在で怖いなという気分になる。
動物的な遺伝子の記憶で「怖い」という感覚は
かさかさという動物が通る音でも湧き出てくる。
美しい木々も樹齢を重ねると「こっちにくるんじゃねえ」みたいな
周波数を出すときがあるらしいとなんかのテレビで見た。
蛇じゃない?猿じゃない?やられるかも!
もしかして、猿の大群に囲まれてない?
すでに仁王の顔を見ても怖いともなんとも思わない私は、
動物のおかげで多少、恐怖を感じるぐらいがちょうど良く、
エンドルフィンとかセロトニンなどの脳内物質がでないまでも
大いに霊場に足を踏み入れた気分になった。
大きな地図で見る
岐阜の関にある日龍峰寺(にちりゅうぶじ)を訪ねた。
山道を車で奥に進んでいくと
ほとんど人気のない場所に行き着いた。
車でいくにはさほど不便ではない場所で
道路左に仁王門が見えてきた。
一度車をとめて地図を見ると
もう少し奥に駐車場があるようなのでさらに登った。
車を止めるとすでにそこは展望台のような景色
標高が高くて山々を見渡せる。
実に空気がおいしいのでリフレッシュされる。
そこから少しだけ歩いて登ると
早速、鐘楼がみえてきた。
日龍峰寺の歴史は古く5世紀初めごろからあるようだ。
さらに奥へと進んでいくと重要文化財の多宝塔が見えてくる。
鎌倉時代に建てられたもので
北条政子が再建したものだと伝えられる。
この寺院の多くの建築は江戸時代以降に建てなおされたようで
戦国時代の前に戦で焼かれたようだ。
多宝塔のみが鎌倉時代だが、それも再建というのは
昔からあったということだ。
その面影を残しているのが本堂である。
この本堂の姿を見れば、あれれ清水寺?と思ってしまうだろう。
舞台造りと呼ばれる様式は、清水寺の時代に東北にも作られている。
とすれば、鎌倉時代よりずっと前に
同じような形でずっとあっただろうと推測できる。
美濃清水と呼ばれるくらい舞台造りは美しく出来ている。
この様式が建てられる環境としては
強固な岩盤のある山を背面にするというのがある。
壇上に作られた強固な岩盤の上に
大きな木製の土台が敷かれて見事だ。
水車や千手桧と呼ばれる霊木の横を通りながら
急な階段を登って本堂の舞台へ上がる。
恐ろしくすがすがしい気分になる場所で、
なんだかすごくすっきりする。と書きたいところだが、
私はプチ高所恐怖症である。
欄干の先端から下を見たら「ふええ」と声が出るほど怖気づいた。
それほど高いところに建っているということだ。
しばらく舞台の上で景色を眺めた後に
本堂の背面にある霊水のある場所へ行く。
本堂の背面は岩肌が露出している。
岩の間から水が湧き出している状態で、
ボケや目の病気に効くということだ。
水を飲みはしなかったが手にすくって上を眺めると、
このスペースがなんだか特別なものだと感じた。
光の届きにくい薄暗い場所に行くと
人間は少しだけ不安な気分につつまれるものだ。
でもここは大自然のなかではなく、人間の作ったスペース。
光の届きにくい洞窟っぽい場所に行くと
「やばい」という気分的な危険信号と
ここは安全という信号が多分心の中で一瞬戦うのだろう。
その結果このような場所では、
ちょっとだけ脳内物質が出て
人間は平常と違った感覚になれると思う。
マニアックな私は仁王門から本堂へのコースを
もう一度進もうとした。別コースで登るプレイだ。
そのときに猿の群れと遭遇し、なんだかキャーキャー叫ぶので
一人でいる私は一瞬怖くなってしまった。
木々の中で薄暗く不安になったせいもあるだろうし、
時折目の前を猛スピードで通り過ぎる動物を見ると
明るいところで見るよりかなり不気味だ。
霊とか神とかが存在しないと仮定して、
このような場所では人間は外敵の存在で怖いなという気分になる。
動物的な遺伝子の記憶で「怖い」という感覚は
かさかさという動物が通る音でも湧き出てくる。
美しい木々も樹齢を重ねると「こっちにくるんじゃねえ」みたいな
周波数を出すときがあるらしいとなんかのテレビで見た。
蛇じゃない?猿じゃない?やられるかも!
もしかして、猿の大群に囲まれてない?
すでに仁王の顔を見ても怖いともなんとも思わない私は、
動物のおかげで多少、恐怖を感じるぐらいがちょうど良く、
エンドルフィンとかセロトニンなどの脳内物質がでないまでも
大いに霊場に足を踏み入れた気分になった。
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